どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

17年生きた猫②

朝。田舎の寒さに凍えながら布団の中にくるまっていると、色んな猫の声がする中で、まろんの声がして飛び起きました。色んな猫っていうのは外の野良猫です。全部で20匹くらいいるらしいです。

 

昨日寝るときは、もうこの夜が最後の夜のような気がしてましたが、この日もまろんはしっかり生きてました。朝からずーっとまろんを眺めたり、抱っこしたり、どこかへ行きたそうにしたら付いていったり。他に何にも考えられなくて時間ばかりが過ぎていきました。

 

昼になったら、しばらく帰省してなかった長男も帰ってきて、まろんの様子を見てました。みんなで談笑してたんですが、それでも心ここにあらずって感じで、なんにも身に入らない感じでしたね。

 

15時くらいに兄が仕事に帰って、私も同じタイミングで帰ろうとしたんですが、なんだか帰りづらくて、まだ少し残ることにしました。

 

何がそうさせるんだろうなって考えたんですよ。なんでこんなに帰りづらいんだろうって。

 

たぶん、納得してないからなんですよね。私の行動理由って、いつも納得がつきもので、納得できないと何もできないんです。何かしら理由がほしいんだと思います。嫁さんの機嫌が悪くなったとして、そのことに腹を立てて逆上したり、知らんぷりする人も世の中には少なくないと思いますが、私の場合は納得するまで話し合わないと気が済まないたちです。向こうからすれば迷惑でしょうね。

 

そんなわけで、今回も納得してなかったんだと思います。

 

私はこれまで、人間動物問わず、誰かの死の間際に立ち会ったことがありませんでした。で、今回は初めてその間際に立ち会う覚悟で帰省してたんだと思います。見届けずに自分は帰ってしまっていいんだろうかっていう葛藤だったと思うんですよね。家族の中で、最初に抱きかかえたのは私だったから、最後もせめてっていう感情もありました。だってここで帰っちゃったら、その時がまろんを最後に見た瞬間になるんだぞ、それでいいのかみたいな心情でした。

 

それでもずっとこうしてるわけにもいかないし、自分のなかで何か納得できる答えを探してたりもしました。もう内心ぐちゃぐちゃでしたね。

 

結局、夕方くらいに帰るんですが、苦しいながらも納得する答えが見つかったんです。

 

例えば、私が実家にとどまったとして、私がまろんの側を離れてる間に死ぬことと、ここから帰ったあとで死ぬことと、そこに何か違いはあるのか?って。きっとないですよね。物理的な距離が違うだけ。病室で最後を見守っている状況ではないわけで、さすがにずっと凝視し続けるわけじゃないですから。

 

たったそのくらいの理由です。

 

そのくらいの理由で、ふんぎりをつけて帰ることにしました。いつものように、最後に声をかけて、頭を撫でて。

 

ふんぎりをつけたとはいえ、帰り道も行きと同じくらい危なかったですけどね。なんだかんだで精神は不安定でしたから。自分の家に帰ってからもずっと何にも手が付かない状況は変わりませんでした。親から連絡はないけど、今はどうなっているだろうか、まだ生きているだろうか、ってずっと気になってました。土曜の夜でしたけど、DiscordにもSkypeにも、入る元気はありませんでした。

 

昨日、泣きすぎてからというもの頭痛がひどくて、痛み止めを飲んでから寝ることにしました。