どこここブログ

10年以上続くナナブルクの人生譚

シナリオ派システム派

以前、ツクラーがシナリオ派とシステム派に別れるっていう話を聞いた。

ただ正直なところ、そんな話は生まれて初めて聞いたものだった。

聞くに私はシナリオ派だという。

たしかにそうだろう。

なぜならシステムに特別な興味がなかったから。

その時の私は、あなたは文系か理系かと問われて

「ん~数学苦手だから文系かな~」って答える男子生徒程度にしか

考えてなかったのだけど、その後、考えれば考えるほど

これはそう単純な話ではないように思えてきた。

システム派がいくらシステムを優先的に考えてたところで

シナリオを放り出して平気なのかと言えば、そんなはずはない。

システム派だろうがシナリオに愛着をもって何度も推敲しているはずだ。

もし放棄してる人がいれば、それはシステム屋と呼ぶのだろう。

一方シナリオ派はどうだろう。

もちろんシナリオを何度も推敲するだろうけど

システムを何度も推敲することはなさそうである。

なぜならシステムを作れないのだから。

ざっくりと分別するとこうなってしまうが、細かいことは省くとして

要はシナリオ派とは、システムを自力で作り出すことの出来ない人が

シナリオでしかそもそも勝負ができないからシナリオ作ってるだけであって

決してシナリオに誇りを持っていたり、シナリオ命!みたいなことは

別にないんじゃなかろうかと。

あったとしても、そこでしか勝負できない自分に酔っているか

勘違いしているかのどちらかである可能性が高そうである。

システム派はといえば、システムも自力で生み出せる力があり

その上で、シナリオもうまく絡めてシステムも引き立たせられる。

そういう意味では、よほどシナリオ派よりもシナリオに愛を持っているように思える。

ここで言うシナリオ派とは、世の自称シナリオ派ツクラーを指しているわけではなく

ただ私個人を指して話しているわけだけど、なんとも納得のいく答えだ。

私はシステムを作る力もなければ、シナリオに誇りを持つこともない。

不思議なものだ。普通自分にはこれがあるから!という得意分野が

何かひとつでもあれば、それを守ろうとプライドが働くものなんだけど

気づいてみれば私にはそれがない。

絵で頑張っていた数年前までは、絵にも人並みのプライドがあったろうに

そこから退いて、個人のゲーム制作の世界に入り浸ってなお

そこにプライドがなかった。

正直なところ自分でも意外だ。てっきりあると思っていたから。

私のゲームに文句を付けられたとしても、文句を付けた人以上に

私はその部分の不満を知っているだろうし、納得もする自信がある。

あなたがそこに不満を覚えたなら、私はその何倍もの不満を抱えたまま

そうせざるを得なかっただけだろうから、納得こそしても

反論などでてくることはないだろう。よほど理解の離れた意見は例外としても。

そんなわけで、私はシナリオ派かシステム派かといわれれば

紛れもなく、何の才もないシナリオ派だと言える。

ここまで考えた結果、じゃあなんでそんな無能と自覚しながらも

ゲーム作り続けられるのかと自問してみると、返ってきた答えは

やっぱりゲーム制作が好きだから、だった。

振り返ると一見してネガティブな内容に見えてくるが実際はそんなことはなく

むしろ現状の自分を見つめ直せたし、さらに貴重な話をしてくれる人が

いてくれることにも感謝したい。

現に、いままでシステムに微塵の興味もなかった私が

次回作ではシステムも絡めた上で考えなきゃなっていうのが

事の最前線にでてきてるくらいには、変化があったのだから。