どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

俺つえー錯覚症候群

えぬさんがまた面白い記事を書いてたのでご紹介。

更新が楽しみになるブログがあるって、幸せだなあ。

今回のお題は『うまくなったと錯覚する』ことのようです。

読んでいて、FFはやったことないものの

システムだけは知ってたし、格ゲーの例題も相まって納得した。

昔から、FFは戦闘システムひとつとっても

毎回新システムが導入される、というのが念頭にあった。

よくまあ同シリーズでシステムころころ変えるなあって思ってたけど

この為だったのかもしれない。

開発者の対談で、常にチャレンジをっていう記事があったけど

その先に見えているのはユーザーの達成感に帰結するものだったのか。

なんだかんだで、この新システムというのがえぬさんも言っている

『上級者を初心者に』っていうことに他ならないんじゃないかと。

もちろん初心者になるレベルっていうのは人それぞれ。

新システム(新しい事象)に対して、比較できる対象(システム)が

自分の経験値の中にあるかないかだ。

以前、ゲームしない一般人とパーティゲームをしたとき

こちらからすれば、そのゲームは初めてやったんだけど

どんなド派手な技が出ようが、終始真顔だったのに対し

一般人たちは派手な演出が入るだけで大はしゃぎだった。

こちらは何も説明を見ていなくても、画面を見た結果

ゲージが溜まった状態で、ボタン一つ押すと出たんでしょ。

っていう状況を、これまでの別ゲーの経験値を元に理解するが

一般人はそもそもゲーム自体が真新しく理解しようとしないので

ただその時その時の事象に驚き、リアクションを起こす。

といった現象が起きていたのだと思う。

ヴァルキリープロファイルの戦闘は当時新鮮で

タイミングゲーなのにタイミングがゆるく、適当にボタンを

押してるだけでそれっぽい動きをしてくれるし、わりとコンボが

繋がってくれてる感があるので、ゲーマーの人でも初めての体験なので

俺うまくね?って錯覚する要因になっているのだろう。

『タイミングがゆるい=シビアなことを求め過ぎられない

=初めての体験だから比較するものがなく、俺うまくね?』と錯覚する。

見ただけで何となく分かるっていうのもポイントだ。

先ほどの一般人を例に言えば、ゲーマーの人でさえ

この戦闘システムの前では、紛れも無く初心者であり

派手な演出に大はしゃぎなのだ。

えぬさんの例に出していた格ゲーもそう。

歴代格ゲーをやってきた人が簡単にコンボが繋がっても

その理由を理解できるから驚きはしない。

でも得意じゃない人の場合は、理解うんぬんのまえに

自分でも凄そうなことができた!という事実に感動する。

以前自分と誰かがスト5で対戦している絵面を嫁さんが見て

同じ技数のコンボでも、ヒット数の多い方をうまいねって

言ってたので、当然だが見た目で判断するしかないわけだ。

レバーさばきで相手の技を一瞬すかして差し返そうが

そんなわかりにくい技術のすごさが理解されることはない。

プロゲーマーのウメハラさんは言いました。

ゲームって結局ボタンを押すことに楽しさを見出すと。

結局楽しいのはレバーではなくて、ボタンなのだと。

確かにそうかもしれないと思った記憶がある。

ぼこぼこコンボを決めて楽しめた格ゲーもVPもテイルズも

全部ボタンを押すことで楽しさを見出している。

似たようなジャンルばかりになっている気がするけど

たとえばFF8ガンブレードだって

タイミングをはかって結局押すのはボタンだ。

私の大好きなレジェンドオブドラグーンもタイミングゲーだし

魔法アイテム使う際のボタン連打なんて終盤も本気で押したものだ。

えぬさんの言う、上手い人には5分ともたないかもしれない。

というのもまさにそのとおりなんだけど

たぶんうまいと錯覚させる作品には、総じて

その先が用意されているのではないかと思う。

その人のスキルがレベル3でとまってればそのままで楽しめるし

より高みを目指せる人にはレベル10まで

対応できる作りになっているというか。

そうすることで、上級者は

『初心者から上級者になるまでの過程』を楽しめる。

たとえ初心者が頑張った結果、中級者どまりであっても

その人にとっては他に比較対象がないので

そのレベルがまぎれもなく上級者と錯覚するのだ。

この法則が崩れる時があるとすれば、蛙が大海を知るときだろう。

昔で言えば友人のスーパープレイを見せられるとか

今で言えばネット動画でもいい、自分より上手いプレイがあると

知ってしまうと感覚的には中級者の人は中級者なんだと知ってしまう。

最初から分かってはいたとしても、見るまではあくまでおぼろげで

実際に見せられるとそれが現実となる感じ。

そしてここでまた分岐する。

その自分の取り組んでいる対象(ここではゲーム)が

自分にとってどれほど負けたくないものかということ。

格ゲーが上手いことにプライドをもっているひとは

自分より上手い人が現れるとさぞ悔しいだろう。

しかしエンジョイ勢はそんなことはない。

すごいすごい!ってなって終わる。

楽しんではいるけどプライドがないのだ。

ゲームに限らず、たとえば絵でもピアノでもなんでもそうだ。

自分は絵が上手いほうだ、と心の底で思っている場合は

自分より絵の上手い人が若手にいると嫉妬するというあれだ。

でもそこにプライドがなければすごいすごい!で終わる。

多くの場合、その人には絵以外で勝負できるものを持ってたりする。

たとえ趣味で絵かいてても『自分の本職はプログラムだし!

そっちではそう簡単には負けねえし!』という意識があれば

素直に他のジャンルをすごいすごい!と褒められるのだ。

で、RPGの戦闘システムが他と違うとしたら

そもそも、『他人と競うものではない』ということだ。

絵は他人と競い、上手い人が生き残り中堅は淘汰される。

格ゲーだってプロゲーマーのいる昨今ではそうだし

プロゲーマーじゃなかったとしても、そもそも人と争うことが

目的のゲームなので当然比較し、他より上でありたいと思う。

しかしRPGは違う。

あくまで個人の経験値の中での比較なので

RPGの戦闘システムにプライドを持っている人は少ないだろう。

自分のゲームは自分が世界を救ってやらないと

隣のクラスのA君は自分のRPGの世界は救ってくれないのだ。

そういう意味でも比較対象(対象プレイ人数)は

うまく錯覚させるうえで重要なポイントなんだろうなと思う。

だいぶ二転三転話がそれた気がするけど

きっと全部、繋がっているはずだ。

考えがまとまってないのに

考えながら乱文かくのは、よくないねえ…。