どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

進撃の巨人

アニメの進撃の巨人が終わったみたいです。

見終わった感想は「正直なところ萎えてしまった」というものでした。あの進撃の巨人すらも、結局はこうなっちゃうのかっていう。

初めて世の中に「進撃の巨人」というタイトルが出てきた時は、それはそれは目新しくて、始まり方もキャッチーだったし、世界観描写も丁寧だし、すごい作品がでてきたなって思ったものですが、作品の中の世界観規模をでかくすると、どの作品も似たりよったりになってしまうものなんだなと。

私が知る限り、たぶんこの作品くらいから、月刊や週刊連載の作品だったとしても、最後まできちんとストーリーを考えきってから書き始めてるなって思い始めたんです。

それまでは「とにかく次の話を面白くするために全力!」みたいなイメージが抜けなかったんですけど、このあたりから1本のゲームタイトルみたいに、漫画であってもちゃんと最後まで走り切ること前提の作りだなって感じたと記憶してます。

そう考えると、最初はキャッチーだった進撃の巨人も、結局はこれが描きたかったのかって思うと、少し悲しくなりました。

これを見て思ったのは、規模をでかくしてしまうと、このタイトルですらマンネリな描写やテーマになってしまいがちということがわかったので、これはこのままじゃいかんなと勉強にもなりました。もっと別のアプローチって必要なのかもしれないって。

世界観規模の大小に関わらず、当たり前にしがちなシーンも、もしかしたら見直しが必要なのかもしれないなって思ったんです。もちろん、作品の演出には「様式美」ってあるので、ちゃんと守ったほうがいいところはあるんですけど、そこに甘んじて考えることを放棄するのもなんか違うなって。

たとえばですけど、物語の最後って「鳥」をとばしがちなんですよ。

エンディングないしエピローグ的な部分で鳥が飛ぶ作品って数えたらきりがないと思うんですけど、あれすらも今回始めて気になってしまった。

鳥が飛んでるのを見て「あ~飛ばしたくなるよなあ」って思ってしまった。

ラストシーンで鳥が便利な理由って単純で、そもそも自由の象徴みたいな生物っていうのもあるし、空を飛べるもんだから、いろんなキャラクターにアプローチしやすいんです。短い時間でいろんなキャラクターに会いに行けるかつ、誰か死んだキャラクターの生まれ変わりとして視聴者に捉えてもらいやすいんです。だから作者にとって都合がいい。

なので私が今後、どうせ最後に鳥を飛ばすなら、もっと別の意味をもたせたアプローチもしないとなあって思った次第でした。

あとイナナキアで考えてた設定と同じような描写もあったので、FF14同様に、ある種の正解を見せてもらって、これまた参考になりました。それと同時に、規模のでかい話を考えるとこうなるよなあっていうのもまたもどかしくて、再考の余地ありという感じです。