どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

発信するということ

先日のウメさんの講演をまとめられる時間がとれたので今回はその記事です。

今回の講演のテーマは「自分で決める」ということ。

まるで一ノ瀬はじめちゃんの教えのようではないか。

私はどうやらその手の考えに惹かれる傾向があるらしい。

ウメさんはここ2年間、人生がつまらなかったのだという。

それは自分で決めずに、知らず知らずのうちに周囲の顔色を伺って

行動してしまっていたから。

一度高みの世界を経験してしまうと、その立場を守るため

今度は下に落ちないよう保守的になるのは当然だ。

けれど、それだと人生つまらなくなってしまう。

自分で選ぶことで、人生は面白いものだったと思い出せたという。

だからみんな、もうちょっと自分の気持ちに正直に生きよう。

と、ざっくりいうとそんな内容でした。

ほんとね、こういう考えに凄く憧れるし共感する。

するんだけど、実行するのはとても難しい。

私は日頃からガッチャマンクラウズ教だウメハラ信者だと言っているけど

私は宗教なんてのは共感さえ得られれば人を動かせるのだと思っていた。

しかし今回のことで、いくら共感しても、それを実行するのは

すごくエネルギーのいることなんだなと思い知らされた。

共感したところで、結局素直になって自分が傷つくのが怖いんだろう。

このSNSの時代、多くの人がろくに自分の頭で考えず

周囲の言葉に簡単に流されて情報が拡散される時代。

どれだけ多くの人が周りの顔色を伺って

ビクビクしながら生きているのかとおもうとゾッとする。

しかしながら、そう簡単に割り切れないこともよく知っているし

事実私なんかはずっと周りの目ばかり気にして生きている。

じゃあ仮に、もし思ったことをぶちまけるように生きたとしたらどうか。

きっとその心の汚れ具合に自分で嫌気がさすだろう。

つまりは、汚れてる自分が嫌いなくせに

根が汚いもんだから、汚い自分しか顔を出さないということだ。

どうすんだこれ。

素できれいな心になれたとすれば、誰にも恥じること無く

堂々を情報の海を歩けるのかもしれないけど

それってほんとに自分なの?とも思う。

周囲を見渡せば、そこは私に限らず汚れた心だらけだ。

そんな心に同族嫌悪して嫌になる。

だからそんな醜態を人様に見せるなんてとんでもないって思ってしまう。

でも発信できないから内にためこんで色んなものを抱えてしまう。

なんて生きづらい世の中なんだろう。

どうして最近こんなにも悩むことが増えたんだろうか。

それこそ数年前まではこんな悩むことなんてなかったはずなのに。

ふと思ったが、もしかしたらニコ生をやめたからかもしれない。

発信する場を失い、閉鎖的な中で生きているから溜め込んでしまう。

ニコ生してた頃は、わりと思ったことを毎日言ってたし

後先考えず発言してたような気がする。

見てくれる人たちっていうのは、得てして好きで見てくれるわけで

そこまで批判的な意見に囲まれることもないだろう。

そうして気づかないうちに、その生活に慣れていたんだろう。

だから閉鎖的となった今が苦しいのかもしれない。

世の中に「自分というものを発信する行為」は、とても大事なことだ。

そこには責任が常につきまとうし、攻撃の的になるかもしれない。

それでも、自分の考えを外に出すということは

それそのものの意味以外にも、自分が自分らしくあるために

必要な行動なんじゃないだろうか。

このご時世、それはとても危険を伴う行為ではあるが

社会の中で生きていく上では、リスクを背負ってでも

発信していくことから逃げてはいけない、そんな気がした。