どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

キャラクターの死

えぬさんの記事で「作品内の死」について書かれてたので

今回はそれに便乗したいと思います。

これまで話したことがあったようななかったような、そんな話。

私が人の作品を見て思うのは、誰かしら登場人物が死ぬと

「うわあ、悲しいなあ」って思うんだけど

それを作り手として見たときに「よく殺せたな」って思うんです。

作り手として見た時に、登場人物が死んだのではなくて

作者が登場人物を殺したという発想になってしまう。

本来、感情移入して作品を見る時は作り手として見ることはないので

素直に作品にのめり込んでるんだけど、ふと冷静になるとって話です。

なので、私が作る作品も、滅多に登場人物は死にません。

なぜかって、かわいそうだから。

作り手とてして、すごくおかしなことを言ってると思うんですけど

この感覚がなぜだか抜けないんですよね。

じゃあ自分の過去作品で死んでいったキャラは

なんで死んだんだろうと考えると、あの話に通じるものがあります。

よく話題にあがる「キャラが勝手に動いた」ってやつです。

ここだけ聞くと無責任極まりない話に聞こえてきますけど

自然とそういう展開になったとき、私は作者としてではなく

いち視聴者になっているってことなんでしょうけど

ひとつ引っかかることがあります。

過去にはそういう展開がたくさんあったにも関わらず

ここ10年作っている忍屋に関しては、それがない。

どういうことかといえば、忍屋は10年間

ずっと「作り手」として作っていたということです。

それは、10年間キャラが「勝手に動いてくれなかった」とも言えます。

忍屋っていう忍者をベースにした話のはずなのに

なんでこんなにもキャラを殺すことに抵抗をもってしまうんだろうと。

それはあまりに試行錯誤がありすぎて、従来のようなノリと勢いで

シナリオが描けなかったゆえの弊害だったんでしょう。

なので椿が雑魚敵を必殺で倒すときも、殺すという表現をしませんでした。

忍者ゲーのくせにね、すごくためらわれたんですよね。

え?椿ってそんな人ぽんぽん殺すキャラなの?違うでしょって。

世界観的にみれば何も違わないんだけどね。

でもそれを、作り手の私がおいそれと認めることはできなかった。

だから本当は殺してるのかもしれないけど殺してないのかもしれない。

必殺で倒したあと、ただ気絶してるだけかもしれない。

そんな曖昧な表現の逃げ道を作ったまま、ここまできてたのでした。

いやあ、自分で書いててすっきりしました。

シナリオの作り方ひとつとっても、忍屋は多大な経験を積ませてくれたので

次回作はその作り方に加えて、従来のノリと勢いを加えられたらと思います。

その作品で、たとえ誰かが死ぬことになったとしても

願わくば、私が殺すことのないシナリオで、あってほしいなあ。