どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

承認欲求についての考察

いま一度、承認欲求について色々考えてみた。

ググってみると、こんな記事が見つかった。

こんな記事に行き着くこともそうだし、それを読んでいる自分は

相当追い詰められてるんだろうなと客観的にみて分かる程度には

まだ自我を保てていると思いたい。

その上で、今回も偏見100%の内容なのであしからず。

世間的に、承認欲求はよくないものだという傾向がある。

上の記事では、承認欲求をなくそうという方針だが

決してそれ自体がまずいわけではなく

他人に依存した生き方になってしまうのがまずいのだと書かれている。

人間の根底は、承認欲求で成り立っている。

突き詰めれば、人は一人では生きていけないとはまさにこれのことだ。

その欲こそが人間なのに、なぜ承認欲求はまずいものとされているのか。

答えは単純で、自分自身が承認されずに

他人だけが承認されてしまう事実が気に食わないからだ。

自分を差し置いて他人だけが目立つのがただ許せないだけなのだ。

仮に他人が認められて自分も認められていたら誰も文句は言わないだろう。

・・・という考えの時点で、たしかに他人に依存していることがわかる。

私はもう他人が気になってしょうがない末期症状らしい。

そんな私は自分自身の持つ承認欲求は消したい反面

他人の持つ承認欲求はどんどん提唱していくべきだと思っていた。

Twitterで欲求全開の宣伝ツイートをしまくってる人なんかを見ると

清々しいし、力ある人はそれがあるべき姿なのだと思う。

たとえ力がなくても、その行動で己を鼓舞し頑張れるならそれでいいし

私もそれを応援したくなる。

これまで無意識にそうしていたが、それはなぜか考えてみた。

相も変わらずさらけ出すが、その理由はあまりに醜いものだった。

本当は自分も承認されたいくせに、自分はそうではないと言い張り

でも他人の持つ承認欲求は認めることで

まわりが承認されるのは欲求を出しているのだから承認されて当然だ。

欲求を出していない自分は承認されなくても仕方がないのだと

ただ自分の無力さに保険をかけているだけの行為だと気づいた。

おそらく今の私に必要なのは、自分に力がないことを認めることだ。

今まで力がないと知りつつも、心のどこかで

いや、自分はわりと頑張ってるだとか、他の何かと比べて優れているだとか

そういうことを考えてしまっていたはずだ。

自分には、まず力がない。

自信がないとかそういう話ではなく、単純に力がないのだ。

力がないくせに認められたくてしょうがないから面倒なことになっている。

そういう人間をみると虫唾が走るのは、ただの同族嫌悪だろう。

いや、しかし、自分に力がないと認めたところで

力がないから承認されないのは仕方ないよねっていう

保険を自分にかけているだけか。だめだこりゃ。

大海を知らない頃は、作ったものに純粋に自信を持ち

胸を張ってどうだー!って公表できていたものだ。

見る側だって、自信たっぷりにどうだー!って発表してくれたほうが

清々しいだろうし、たとえそれが拙い作品だろうが全然目をつむるだろうし

応援もしたくなるだろう。それが見る側の親心みたいなものだ。

誰もこんな陰険な性格のグチグチいうような人間の側につこうとは思わない。

しかしそうだったのだと気づいてしまったものは仕方ない。

人の性分なんてそう簡単に変わらないし変えられるものでもない。

つまり私の土台はこのまま変わることはないと考えたほうが無難だ。

では、そんな人間はどう生きていくべきだろうか。

どういう姿勢で生きていけば、苦しまず生きれるだろうか。

次は、これについてしばし考えを巡らせてみよう。