どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

伏線は回収しなければならないのか

伏線は回収しなければならないのか?

これが本日のお題。

 

伏線を見事回収し、風呂敷を畳みきった作品は評価される傾向にありますが、これはすなわち、とてもよくできた物語でした、すばらしい!と作者を讃え、物語を評価しているということになります。

 

何を当たり前のことを言っているんだとおもうかもしれませんが、これってつまり、物語の中に入り込めていないとも捉えられませんか?

 

だって、世の中生きてて、私たちの周りにはいろんな謎が散らばっているけども、私たちはそれらの謎を解くことなく、のうのうと日々を生きてるじゃないですか。謎なんて解けなくて当たり前なんですよ。

 

でもこと作品ということに関していえば、謎は用意されたもの。こっちがじっと待っていたら、誰かがポンと出してくれて、わぁ!っと楽しくなって、その謎に対する回答が作品内にあるのが当然だという認識のもとに成り立っているわけです。

 

つまり、自分ごととして考えられていないんですよね。あくまで自分は俯瞰してみている、作品の中にのめり込めているようでのめり込めていない。作中のどこかに回答があることを無意識の内に期待してしまっているし、あって然るべきだと思ってしまっている。だから伏線回収してないことに対して文句をいう人が後をたたないんでしょうね。

 

私個人としては、伏線は作中で回収しなくてもいいが、作者の中では回答を持っておくべきだと思います。

 

作中に全部を説明してしまうと、違和感がすごいんですよね。違和感なく作中に落とし込めたとしたら、それはそれですごいですけど、よく綺麗にまとめましたねとは思いますが、それが必然とは思いません。

 

それを説明することで少しでも違和感が出てしまうならやめておくほうが懸命だろうと思います。

 

たとえば。

 

RPGで主人公と敵役がいて、主人公が「どうしてこんなことをするんだ!!」と敵に投げかけたとします。

 

でも、これに対して敵が答えてやる義理ってないですよね。聞かれたから答えるやつもいるだろうけど、そもそも答えたくない奴だったいるでしょう。でも理由を説明しないと風呂敷が畳めないから説明してあげるというのはお門違いなきがするんですよね。

 

これは極端な例ですが、もっと実践的な例で言えば、敵のとる行動に対して、いちいちその行動理由を説明する必要はないといいますか。むしろ話すと不利になることだってあるわけじゃないですか。でもそこで説明がされるのは、主人公に対してというより、プレイヤーに対して説明してしまっているんですよね。

 

いやあ、難しい問題です。

また土曜日にでも話したいお題ですね。