誰にでも「私はドラクエが好きだ」と自信をもって言える程度にはドラクエが大好きなナナブルクですこんばんは。
ドラクエがどのくらい好きかを一言で表すと、「ナンバリングというだけで、あのDQXを7年間プレイしてます」って皮肉の効いたことくらいしか思いつきませんでしたが、それくらいドラクエが好きです。そもそもDQXを知らない人には伝わらないですね。
さて、私の自己紹介はこのくらいにして、問題の話題作、映画ドラクエ「ユア・ストーリー」を見てきました。
こんな記事のタイトルを書いておきながらあれですが、大前提として映画そのものに感動したわけではありません。映画が好きだった人には申し訳ない。あれは多くの人がそうであったように、映画の感想自体は「無」そのものでした。
ただ、私は人知れず感動していたのです。すでに悪評が広がり、平日の夜に見に行く変わり者がそもそも10人程度しかいなかったけど、それでもあの空間で一番楽しんでいたのは私だったのではと思っています。
今回の映画を見るにあたって、事前にネタバレは避けていたんですが、それでも耳に入ってくるのが「ドラクエの映画、ひどいらしいね」という感想の声たち。私が人一倍ドラクエ好きなので、それを知っている周りの人たちから嫌でも聞かされるわけです。本来なら初日に見に行って、そういったネタバレすら回避していたはずなんですが、今回は風邪を引いてそれもかなわずでした。ただ、今回ほど、公開初日に見に行かなくてよかったと思った映画はないですね。初日に行っていたら、ご多分に漏れずキレてたでしょう。
「相当にひどいらしい」という前情報があったおかげで、そういった心構えで見ることができたわけです。
私のなかのドラクエは、あくまで堀井雄二が主体なんです。どこまでいっても、ドラクエと堀井雄二を切っては語れません。ドラクエは国民的RPGと謳われるだけあって、そのファンの数も計り知れません。これまで多くのオーケストラにも参加しましたが、その客層を見ても明らかです。ファンにあれだけ老若男女がそろってるゲームタイトルなんて他にそうそうないでしょう。
それゆえに、ドラクエにはたくさんの愛が渦巻いているんです。プレイした人の数だけ物語があって、自分だけの正解がたくさんある。そして、みんな「それこそがドラクエだ」と信じて疑わないんです。でもね、これは有名な話なんですが、そんなドラクエに一番寛容なのって、堀井雄二なんですよ。
以前、ドラクエ開発スタッフの一人がこんな事を言っていました。開発中、とんでもないアイディアがでたときに「それはドラクエではない」そう思ったが、堀井さんが「いいじゃない、面白いと思うよ」と言ったそうです。私たちが感じている「ドラクエらしさ」を一番にぶっ壊そうとしてくるのが堀井さんだといいます。
堀井さんのTwitterで、今回の映画の試写会を終えたときのツイートがあります。
ちなみに今日は、ドラクエ映画の完成披露試写会でした。何度見ても、泣けます。ビアンカ、フローラ、2人とも超可愛いです。こんな素晴らしい映画に仕上げてくれた、山崎監督、スタッフの皆さんに、本当に感謝です。#映画ドラクエ一万人の勇者 pic.twitter.com/TAHZcwk8kG
— 堀井雄二 (@YujiHorii) July 16, 2019
何度見ても泣ける。すばらしい映画。そう書いてあるんです。
世間がここまで酷評しているものを、堀井雄二は絶賛している。これは一体なぜなのか?その答えを、映画を見る前にずっと考えていました。映画は見てないけど、多くのファンが怒っているように、内容は相当ひどいものなんだろう。だが何かあるはず。堀井さんは何か私たちとは違うものを見ている。そんな気がしてならなかったんです。
で、本日。映画を見て、終始「無」の時間が続き、噂のラスト15分。これが例の問題となったシーンでしょう。ここで私はハッとしたんです。この映画のタイトルは「ユア・ストーリー」。あなたの物語。これがこの映画のテーマです。前述したように、ファンの数だけ自分のドラクエがあるんです。わかりやすく言えばナラティブ。ユア・ストーリーを置き換えればナラティブってことですよね。「デジタルだったけど確かにそこに俺たちの物語はあったんだうんぬん」言っている最中に、ふと思ったんです。
「・・・堀井雄二の物語ってなんだ?」
これまで30年近くドラクエとともにあった私ですが、これを考えたことがなかった。ちょっとした衝撃です。みんな誰しもが、自分の物語をもっている。だから今回の映画に純粋にキレてるわけです。そりゃそうです、自分のドラクエを返せ!そう思うでしょう。ただ堀井雄二は違った。
堀井雄二はドラクエの生みの親。生みの親が味わえるのは、私たちが味わっている物語とはまったく違う。すべてを知っているわけです。知った上でプレイし、自らの手で作られた感動を味わっていたでしょう。私も曲がりなりにもゲームクリエイターのはしくれ。自分でゲームを作ったときのことを思い返すと、納得してしまいます。そうか、作者が味わえる物語と、ユーザーが味わえる物語はまったくの別物であるということ。どちらも作品を愛する気持ちはあっても、その愛情の形も別物だったんです。私たちの愛は、ナラティブを通じて得た、自分で得た世界観の愛。でも堀井雄二がドラクエに抱いている愛は、おそらく別物だったんです。
だから私たちファンは、そんなのドラクエじゃない!と一蹴してしまうようなことでも、堀井さんは許容してしまう。根本的に見ているもの、感じているものが違ったんです。
すごく噛み砕いて言えば、自分の作った物語の二次創作を誰かが作ってくれたら、ちょっとうれしいじゃないですか。自分の描いたオリキャラのファンアートを誰かが描いてくれたらうれしいじゃないですか。それの延長上のような気がします。
なるほど、だから堀井さんはこの映画をみても、そういった観点で見れて、原作といちいち違う設定に対しても「そっかこういう展開もあるのか、それもいいね」なんて許容し、最後のとんでも設定にも「こういった見せ方もあるのか」と許容したんじゃないかと思ったわけです。今回の映画は、原作こそDQVですが、タイトルのどこにもDQVとは書いてませんしね。
その観点にたどり着けたことが、今回映画をみて感動した理由です。