どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

見ているようで見てない世界

DQXの最新ボスであるスコルパイドは、見た目がサソリなので、そこかしこで「蠍」っていう文字を見るんです。

 

で、ふと思ったんですよ。

 

蠍ってよめてるのに書けないよなあって。よくある話じゃないですか。読みはできて書けないってやつ。あれってなんでなんだろうって思ったんです。じゃあ何をみてたの?って。

 

なんというか、ふわっと、全体の形として捉えてる感じがします。日常的に似たような現象があるなあって思ったのが電話番号。会社のデスクの左側にはいつも電話がおいてあるんですけど、ディスプレイにうつる数字の羅列を見たら「あ、○○さんか」ってなるのに、いざその電話番号いえるのかといえば、正直全然思い出せないんです。何見てたんだってなりますよね。

 

これは絵にも同じことが言えるのか?って思ったけど、たぶんちょっと違う。脳内にイメージはあるのにトレースできないってやつです。あれは単純に構造を知らないからですね。たとえば肩と脇付近を描こうとしたときに、その付近の筋肉を知らないとまず描けません。わかってないのに無理やりひねり出そうとして崩壊するやつです。格ゲーのキャラ対策できてないのに無理やり戦ってる状況のほうが近い。

 

でもわかってれば描けますよね。それだけのはなし。そう考えると漢字も同じ気がしてきました。よくテレビで林先生が漢字の成り立ちとか説明してますけど、そういう成り立ちとか、なぜそこにその部首があってとかまで理解してると、おのずと書けるって話なのかもしれません。ちょっとちがうけど昔なにかの番組でやってた「憂鬱」の「鬱」の字の覚え方を「リンカーンアメリカンコーヒーを3杯のんだ」で未だに覚えててスラスラ書けるんですが、それと似たようなものですかね。

 

となると電話番号もただの語呂合わせとか暗記って話になるんだけど、今回いいたいのはそこじゃないですね。脱線してました。普段は繋がってない記憶だけど、視覚情報を通すことで鮮明に思い出せてるってことなんでしょうか。でもあれだなあ、正確に覚えてないんだから、視覚情報を通して正解を見ても、それが本当に正解かなんてわかるわけないんですよね。

 

「蠍」の真ん中の「人」の部分が「ヒ」になってても絶対わかんないですよ。蠍が例だと複雑過ぎて説得力ないですが、もっと日常的にみてるような熟語でも棒がいっぽん増えてても気づかない気がします。

 

そもそも人間の目がみてる世界も、結構視界の外らへんは脳がかってに補完してるっていいますし、かなりいい加減にものごとをみて、いろんなものを都合のいいように解釈して過ごしてるのかもしれません。

 

人を見た目で判断するっていうのもこれらの延長線上にあるものかもしれない。

ちゃんと自分の目で、自分の考えで、世界を見たいものですね。