どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

自分の時間に酔いしれているか

ハルヒの新作がでるみたいです。

 

 

とはいえ正式な続編というわけではなく、短編としてらしいですが。

なんにせよ、新作がでるっていうのは嬉しいニュースですね。

 

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それはそれとして本日は罪悪感についてのお話。

 

私はここ毎日、何かしらの罪悪感に苛まれながら生きてます。この罪悪感はなにかといえば「今日もちゃんと自分の時間を生きれたか?」ってことだと思ってました。

 

しかし驚くべきは前の休日、ものすごい多忙な一日を過ごしたにもかかわらず、その夜は結構な罪悪感につつまれてたんです。その時は、私にとっての自分の時間は「創作活動をした時間」だと思ってたんです。だからいくら多忙だろうが、1mmも創作できていない日は罪悪感がものすごい。逆を言えば、どれだけ適当に過ごした一日でも、1mmさえ創作していれば、それなりに許せてしまう、そんな気がしてたんです。

 

ただ昨夜、ベッドの中ではたして本当にそうなのかと思慮を巡らせていたら、別の考えが浮上してきました。

 

仮に新作のゲームを買って、一日中遊んでいたとしても、きっと罪悪感はない。仮に田舎へおでかけしたとして、草原のど真ん中で空を見上げながらボケーっとしてたとしても、それもまた罪悪感はないだろうって思うんですね。

 

つまりはどういうことか。

 

有り体にいえば、自分の生きてる時間を有意義に使えているかどうか。言い方を変えてみると、自分の生きてる時間に酔いしれているかどうか。そんなニュアンスな気がします。よくいう、充実した輝かしい私、みたいな。どこぞの女性雑誌に載ってそうな、休日は自宅のリビングで読書をしながらお気に入りのコーヒーを入れてカフェ気分♪みたいなやつの親戚かもしれません。

 

私にとって草原で寝っ転がることはカフェ気分のそれと同じようなものなので、かなり酔いしれるんですね。そりゃ罪悪感なんて生まれませんよ。輝かしい自分の時間を全うできているんだから。

 

つまり、ここ最近罪悪感が抜けないのは、自分の理想にあるまじき時間を過ごしてしまっているということです。前述した創作をしたかどうかっていうのは、理想としてわかりやすいアクションであるってだけで、別に創作が絡んでなくてもいいはずなんですよ。だからこう新しいことを毎日やろうとすると充実した感が生まれるんですかね。毎日ちがう映画見たり、違うお店へいってみたり、違う帰り道を通ってみたり、夫婦でいつもと違う何かをしてみたり、友人たちと普段とはちがうことをしてみたり。

 

こう書いてるとあれですね、なんか意識高いやつみたいですね。もしかしたら意識高い系の生き方って、眩しすぎて毛嫌いしてしまうだけで、私たちの理想的な生き方をしているのかもしれません。