ここ最近のモチベ低下具合がやばいナナブルクですこんにちは。
・・・いや、モチベが低いというのは語弊がありますね。寝るときにいつも、モヤモヤしたままの自分がいると言いますか、それはすなわち「やるべきことをやれてない一日」を指すわけです。何度この手の話題を記事にすればいいんだってくらい、一生つきまとう問題でしょうけどね。
このところ、Twitterで長月さんがUE4の練習過程をアップされてるんですが、それを見てると嬉しくなる一方で、なんだか羨ましくもある自分がいることに気づきました。昔を懐かしんでしまうというか、好奇心旺盛で、好きなことへまっすぐ突き進む様は、まさに好きなことに夢中だった昔の自分を見ているようで、そして今の自分にはそういったものがどんどん欠落していることを再認識させられるのでした。
話が変わるんですけど、Amazonプライムでメジャー2ndを見てたんですが、そこで語られたのは「野球を好きな才能」についてでした。主人公の大吾は特別な才能がないのに親の七光りだと言われて苦しんでるわけです。でも野球は好きという才能は誰にも負けない、そんな話でした。
好きという気持ちは本当に強い。どれくらい強いかって、失敗を恐れないというか、そもそも失敗がどうとか考えてすらない。楽しいからやる、それだけなんですよね。世の中のほとんどの著名人を支えているのはこれだろうなってくらいには、人間には無くてはならない感情だと思います。
で、話が戻るわけですが、私はゲーム制作が好き?と問われれば好きと答えると思うんですが、じゃあどの部分が好き?って聞かれると具体例がでてくるわけです。
でも、私がゲーム会社を目指さなかった理由を思い返すと、自分の思い通りのゲームが作れないからって理由だったはずなんですよ。極論を言えば、会社に入るとグラフィッカーはグラフィック作っておしまいです。いやいや、全部に関わらせてよって思います。俺は絵が描きたいんじゃない、ゲームを作りたいんだ!って思っていたのを覚えています。
ただこの時点で矛盾してますよね。
制作の工程に好き嫌いがあるくせに、ゲーム全体には関わりたいって。好き嫌いはあるけど好きなことを叶えるために多少は我慢しろって話なんでしょうけど、一体私が目指しているのは何なんだろうって頭を抱えるんです。冒頭の「好き」の原動力からすれば、もはやあれこれ考えてる時点で、好きのそれではないんじゃないかって思います。
それともう一つ感じたのは、どれだけ壁にあたったか、どれだけ壁を乗り越えられなかったか、も一つの指標になりそうだなって。物事に1~10までクオリティのレベルがあったとしましょう。
「Aが好き」という気持ちがあり、Aに手を出した結果、5までできたけど6からは自分には無理だな、という壁にあたり、そしてそれを乗り越えられなかったという事実が残る。実はこの時点で意識の差が生まれてます。5で満足する自分と、5じゃ満足できない自分です。後者は、満足できないくせに6以降の力がないと落ち込むわけですね。
このような事象が、Bが好き、今度はCが好き・・・といった具合にたくさん生まれていくわけです。それは絵だったり、動画だったり、3Dだったり、DTMだったり、プログラミングだったりするでしょう。
壁にぶちあたり、満足しないのに乗り越えられない。
そんな現状が増えれば増えるほど、自分の力というものを決めつけていって、好きの原動力が弱まっているような気がします。
これまで他人の目を気にしてどうのこうの、承認欲求がどうのこうの言ってきましたが、その実、一番気にしていたのは「自分の目」だったのかもしれません。
みなさんは、誰の目を気にして、生きていますか?
Web拍手レス
よくよく考えたらFF3~9までほんとんどのラスボスが無に帰してくるんだけど…子供の頃はなんとも思わなかったけど、無に帰すってマジでどういう事なんだろう 個人的には、うたわれるもののオンカミヤカムイの動機が好き、人間を発展させるために戦争を起こさせるってヤツ@ますた~
俺たちもいっそ、無に帰されてえよなあ…