どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

夢中になれたあの頃

風呂掃除しながらふと思ったんですけど、なんでゲームで遊ぶことって何のエネルギーも使わずにできるのかなって。

 

何度も記事にしてますが、昔はツクールで作ることは最高の遊びだったんです。

休日、ゲームで遊ぶことよりも楽しいツクールで遊んでたんです。

ツクールと出会うまでは漫画を描くのが最高の遊びだったので、黙々と描いてました。

 

ところが今は、毎日のようにやる気でねーって言ってる自分がいるじゃないですか。

そのかわり、スト5やDQXは誰に頼まれてるわけでもないのに延々とできる。

 

そこで気づいたんですよ。

 

「ゲーム作りって、もう自分の中で最高の遊びじゃなくなってるんじゃない?」

 

今まで気づきそうで気づいてなかった事実。

 

いやいやちょっとまて、ほんとにそんなことがあるのか。オワ5とかオワクエなんて言ってるものが、本当にゲーム作りに勝るなんてことはあるのか。

 

冷静に考えてみた結果、楽しさのベクトルが違いましたよね。

 

自分で創造しているときの楽しさと、消費しているときの楽しさが同じベクトルなわけがない。昔からそうだったはずで、夢中でゲームを遊びまくってるときもあれば、夢中でゲームを作ってたときもあったわけです。ただ昔と今で違うのは、何事にも夢中になれてたってことでしょうか。夢中でゲームを遊んでるときに、ゲーム作らなきゃ・・・って義務感に苛まれることなんて、ただの一度もありませんでした。

 

じゃあ、なぜ今は義務感に襲われるんでしょうか。

たぶんこの感覚って、私だけじゃないはずなんですよ。

 

同人誌作ってる人だってそう。

 

ゲームで遊びてーーーって言いながら、遊びを我慢して同人誌を描く。

きっとその人達も、昔は我慢なんてしてなかったはずなんですけどね。

我慢することなく、遊びたいときに遊び、作りたいときに作ってたはず。

 

そうか・・・見せたい対象が、家族とか友達だったのが、いつしか世界が対象になり、そこには締め切りが生まれ、それが原因で遊びたいときに遊べなくなり、結果遊びを我慢して、本来夢中で作れてたものを義務に感じてしまう。

 

こういうことなんですかね。

 

一見自滅にも見えますが、達成感は昔のそれとは違うし、なんだかんだで良い均衡が保たれてるのかもしれないです。

 

つまり。

 

今回のことでわかったのは、創作そっちのけで遊びたい欲がでたときに、後ろめたさを感じる必要はないってことです。

 

遊びたい?そりゃ遊びたいですよ、人間だもの。

 

ただ世界へ向けて自分の作品を発信したいって自分で決めたんだから、見えないだけで締め切りはあるんだよ?どれだけ引き伸ばしても寿命という名の締め切りはあるんだよ?それなら遊びはちょっと我慢して創作も頑張ろうね。

 

ってことなんですかね。