どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

知ることのない遠い未来

自分が死んだあとの世界ってどうなっているんだろうか。

そんなことが気になるこの頃。

未来では、車は空を飛んでるかもしれないし

宇宙旅行が盛んになってるかもしれないし

コロニーで基地を作ってるかもしれないし

VRやARを越えた何かの娯楽が待っているかもしれないし

人類の冷凍保存やロボットとの恋愛が生まれているかもしれない。

そんな空想でしか見たことのない世界を想像することはできるけど

実際にこの世で起きる事象として、自分の目で見ることは

ないんだろうと思うと少々悲しい気がする。

・・・しかし本当にそれが悲しいのだろうか?

たとえば。

10年後の未来を見せられたとする。

とある団体の予想によれば、体内に埋め込む携帯電話ができてたり

肝臓が3Dプリントされてたりするらしい。

ちょっとそれだけで近未来のSF感があるじゃないか。

100年後の未来はどうだろうか。

とある科学者の予想ではこんな具合だ。

3Dプリンタで建物もシェフの料理も一瞬でできてしまうらしい。

会社の真後ろの席で毎日ずっと稼働している3Dプリンタを見ていると

とてもそんなすごい未来が待っているとは思えないが

世間はどんだけ3Dプリンタに期待してんだと思ってしまう。

あとは病院がなくなってるとか、お医者さんカバンの登場だろうか。

海の中に住居を構える人が出てきたり、レジャーの行き先に

ついに宇宙に行っているらしいが、100年でやっとそんなところだ。

1000年後はどうだろうか。

こうなると人類がそもそもいるかどうかって話になるみたいだが

仮に生きてたとしたら、新たな人類に変わっているとか

シドニアみたいに人間が光合成するとかそんな感じらしい。

DNAを自在に組み替えれて、宇宙に適応した生物になることも可能だとか。

あとは超優秀な人工知能とかそんなところ。

実際に起きるよと言われると少々嘘くささが残るが

先人たちの創作物のおかげで、このあたりも想像に難くない。

そう考えると、人類が住める場所を探すというよりかは

人類が環境に合うよう変化すると考えたほうが技術的には先のようだ。

ここまでざっくりと1000年先の未来までの予想記事をサーフィンしただけで

まるでタイムマシンに乗ってネタバレをくらった気分なのだが

1000年経とうが、人類は生きることに執着しながら

まだ見ぬ謎へ向かっている様が見て伺える。

冒頭で私は自分の目で見れないことが悲しいと表現したが

きっと私は、それそのものが悲しいのではなくて

その世界を永遠に知ることはできないというその事実が

何よりもどかしいのだろうと思う。

なぜなら、今本当に10000年後の世界をみせられたところで

へ~こうなってるんだ!すごーい!

となって数分後にはきっと興味が薄れていると思うからだ。

まさに私が次回作「イナナキア」で表現しようとしていたことが

このあたりに含まれているのだけど、果たしてそんなことでいいのだろうか。

たしかにずっと人類の根本にあるのはそれかもしれないが

もっと何かその先へ、あるいは先ではない別の軸上に

私の求めるテーマがあるのではないか。

そんなことを考えていたら、いつまでたっても作品はできないし

それこそ消化不良のまま人生を終えてしまいそうなので

ほどよいところでテーマを確定させたいところだけど、どうしたもんかなあ。