どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

続・作品愛とは

前回の作品愛とはに続き、またまた作品愛について。

上の記事でも、ちらっと書いていたことだけど

作品愛とは、自信そのものなんじゃないかと考察する。

単純に、今作っている忍屋というものに自信がない。

どこを切り取っても、自信がもてない。

昔はもうちょっと自信もててた気がするんだけど

いつからこんなになってしまったんだろう。

プログラム面はどうすることもできないので置いておいて

それ以外で考えても、ほんとひどい有様だ。

例えばホコグラ。

まったく統一性ないし、いろんなものを真似てるだけだし

敵のグラの手抜き具合も露骨にひどいもんだ。

例えばマップ。

まるで計画性のないマップ構成だし、無理に頑張ろうとして

背伸びしたけど届いてない感じだしパースぐちゃぐちゃだし。

例えばイラスト。

描いた時期がバラバラで絵柄もバラバラ。

一枚絵はたまにしかないくせに作画崩壊もいいところ。

例えばシナリオ。

10年かかってこれ?

これのどこに時間かかったの?

・・・とまあそんな気分。

完成が近づくに連れて自信がどんどんなくなっていく現象は

正直かつて一度も味わったことがない。

どの作品のときも自信たっぷりにリリースしてた気がする。

これが1から素材作る本来のゲーム制作の姿だというのか。

いや実際その通りなんだろうけど、あまりにも過酷すぎる。

作品愛とは自信そのもの。

たとえば他人の制作の進捗状況を見たとしよう。

道具屋のマップ作りました!とかツイートしてたり

あそこのイベントには、あっという展開をご用意しましたよ!とか

最近でいうなら、DQ11発表会で堀井さんの言ってた

カミュとはちょっと意外なところで出会うんですよ、とか。

そういう言葉を見たり聴くだけで、おおおおすごい!ってなる。

もしかすると、その自信の裏に沢山の不安とか抱えてるのかもしれないけど

他人のことだから、こっちが勝手に「自信」に置き換えてる節がある。

かたや自分のことはといえば、不安100%なんだから自信がもてるはずもない。

たとえば昨日わたしが作ってた訓練場のイベントのスクショがこちら。

訓練が4つあって、一つひとつの技が実在した忍びの技になっている。

その修行風景は、リアルを踏襲しつつもゲーム風に置き換えたものにしている。

その中の一つに、布を地面につけずに走るというものがあったから

これの為だけに専用ホコグラを用意して椿に走らせるイベントを作っていた。

さてどうだろう。

きっと私が他人で、この進捗状況を読めば

おー、忍者への愛がつまってるねえ~とか

専用グラ用意するとかよーやるわ、とか

一見してそういった評価をしてしまいそうだ。

ただこれが自分のこととなった途端に

「いや、そんなのあって当たり前でしょ」

と一蹴して終わる。

訓練にイベントあるのは当たり前だろうし

忍者ゲーなんだから実際の忍者から設定とるのも当たり前だし

何も特別なことなんてない。それのどこに自信をもてというのか。

何を持ってして自信をもち、何を持ってして自信を失うのか。

うーーーーん、なんとも奥深い。

また何か発見があったら、今度は「続々」と題して記事にしよう。

関係ないけど、続が続くと聖剣LOMを思い出すね。