10日が伊露葉さん(椿の中の人)の誕生日ということでお祝い絵描いてました。
毎年言ってる気がするけど、知り合った頃はJKだったはずなのに
それがもう20歳ですよ、成人ですよ。
時の流れは早いなあ・・・。
伊露葉さんがポケモンやってるらしいので
CMでよく見かけたピカチュート?のポーズさせてみました。
<ピッピカチュウ
冗談抜きで、もうそろそろ完成しそう感あるので
プログラマさんの進み具合では来年の夏くらいに公開できそう。
できそうなんだけど、最近「作品愛」についてよく考えるようになった。
みなさんの作っている作品には、愛があるだろうか。
フリゲーが大量に登録されている「ふりーむ!」を見ていると
みんな「作品の頑張ったところ!」みたいな項目にあれこれ書いてある。
それを見て、わからなくなってきた。
忍屋の頑張ったところってなんだ・・・?
この作品の、いったいどこに愛があるんだ・・・?
っていう気分になる。
市販のゲームにしろ、フリゲーにしろ
「細部までよく作り込まれてて、愛を感じました」
なんてコメントをよく見かける。
作り手からすれば、たしかにその素材ができた時点では
よくできた!って思うけど、時間が経つに連れて感覚がマヒし
それがあって当たり前になっていく。
結果、がんばって作ったはずなんだけど
自分の作品には、まったく愛がないように見えてくる現象がある。
おそらく誰にでもありそうな現象だけど
それでも自信持ってここ頑張りました!って言えてる人たちをみると
その失っていない自信すごいなって思うし、素直に羨ましい。
忍屋の中にあるはずの、私が散りばめてきた愛ってなんだろうか。
そもそも、そんなものがあったんだろうか。
今や制作もラストスパート。
残っている素材もあと24種。
素材を作っては一瞬愛が生まれ、すぐ消えていくような毎日。
なんというか不安というよりも、申し訳無さでいっぱいになる。
果たしてこの作品に愛はあるのだろうか・・・。