どこここブログ

10年以上続くナナブルクの日記

安定行動とスリル

今日は安定行動についてのお話。

日頃から私たちは、安定行動をよしとして生きている。

中にはスリリングな日々を揉めて危険な道を選ぶ人もいるだろう。

冒険家なんて職業があればまさにそれに違いない。

身近なところで言えば個人競技のスポーツ全般もそれな気がする。

だが一方で私たちは、基本的には安定行動の中に生きている。

日々生きていて私がよく考えるのだけど

日々をパターン化しようとしている。

帰宅後~就寝までを規則正しく生きれないかと。

そのほうが色々と計画を立てやすいだろうし

安心した中で生きられるからに他ならない。

何時~何時までは家事を手伝い

何時からはお風呂に入り、何時からゲーム制作をする。

と決めたほうが、明日もそのように動けばいいんだという確証が持てる。

このまま一生を終えればそれはそれでいいんだろうけど

困ったことに人間は、スリルを求める生き物なようで

時には刺激がないと満足しなくなってしまう。

でもそんなたまの刺激にも、保険をかけるように動くのが人の性だ。

たとえばゲームを遊ぶことだってその一つだろう。

知らないゲームの続きをやることでスリルを味わう。

でもそこに本当の危険は付きまとわない。映画もそうだろう。

USJやディズニーランドへ言って絶叫マシンに乗る。

これも普段とは違った刺激だが本当の危険ではない。

こんな具合に、どこかに安心を抱きながらも

ほどよい刺激をもとめるのが一般的な世の傾向といえるだろう。

しかしそれでも飽きたらず、元気と勢いがあれば

本当の危険を犯してまでスリルを求めてしまうのことがある。

何も本当の危険=命の危険というばかりではない。

私自身の例で挙げればこうだ。

ニコ生で開催してきた数々のイベント行事。

これは本当にスリル満点の日々だった。

チャンスは一度きり。

事前に多大な時間をかけてOPムービーを作り

色んな人と打ち合わせをして、たった一日の特定の時間に開始する。

あと数分で始まってしまう・・・とPCの前で待機しているときなんて

それはそれはトイレに駆け込みたくなるレベルだった。

もしミスすれば見てくれていた何千の視聴者とともに

つまらないイベントだったとその後の未来にまでレッテルを張られる。

成功させなければならないという、自分ひとりでは完結しない事象だ。

格ゲーの生配信だってそうだ。

他の生主さんとの一夜限りの決闘。

前日から練習を積み重ね、7本選手で試合を挑む。

負ければその後ずっと負けたという事実がつきまとうというリスクだ。

これらに共通して言えることは

そのリスクを冒すまでに、多大な時間をかけていることと

そのリスクは一人ではありえない事象ということだ。

費やした時間を、その一瞬しかないチャンスでものにできるかどうか。

そこに人はすべてを注ぎ、熱くなれるのだろう。

それも今では数年前のお話。

最近の自分は、本当のスリルを求めた記憶が無い。

またいつか、身体の芯からドキドキするような体験をしてみたいものだ。

プロポーズや結婚、マイホーム作りが違うかといえば

確かにハイリスク・ノーリターンであったり

いざ戦えば10:0のザンギVSダルシムもびっくりなダイアグラムかもしれないが

なんだかこれは違う気がするし。

そう考えると、ゲーム制作っていう行動にリスクはあるんだろうか。

これがプロの世界なら単純にお金が絡んでくるだろうけど

フリゲーでやっている以上、むしろそこが安定行動の代名詞だろうし

ゲーム制作は好きだけど、そこにスリルはないのかもしれない。

あるとすれば、頑張って作って発表した結果だろうか。

反響があるかどうかのチャンスは一度きり。

しかし私なんかからすれば、フリゲーなんだから文句言うなとか

どんだけ作るのが面倒くさいかわかってんのかとか

そんな、いかにもな保険を盾にしてそうで

やっぱりそれはリスクから逃げてるんだろうなあ。